2020 政木屋Presents 柚子の収穫体験会について(参加決定者様へ)

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

表題の通り先日参加決定者様にはハガキにてお知らせいたしましたが、開催場所等が抜けておりましたので改めて下記の通りご案内いたします。

開催日時場所

令和2年11月29日(日)

柚子収穫体験会2019

柚子

 

 

 

既に参加人数の限定上限に達しておりますので、新規の受付はできません。

今年はコロナ禍を勘案しながらの開催になりますので、何卒ご理解の程お願い申し上げます。

また、参加決定者の方々におかれましては何か不明な点等ございましたら、028-672-4118迄ご連絡ください。

日・水曜日は定休日

9時~12時、13時~17時の間でお願いいたします。

 

製麺所に一番近い飲食店・・・麺工房 政木屋です!

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

只今栃木県内で開催中の「GoToEatとちぎ」の食事券が麺工房でもお使いいただけます。

また、当社直営店舗の

麺のhaco 宇都宮市上戸祭町94-15 定休日無

https://tabelog.com/tochigi/A0901/A090101/9019045/

らーめんつる味 宇都宮市上田町1018-1 定休日無

https://tabelog.com/tochigi/A0901/A090101/9011482/

でもお使いただけます。

この機会に是非ご利用ください。

Twitterやって〼

政木屋Presents 柚子の収穫体験会の受付終了のお知らせ

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

表題の通り2020年の政木屋Presents  柚子の収穫体験会は定員に達しましたので、受付終了とさせていただきます。

沢山のご応募ありがとうございました。

今年はコロナ禍の影響で縮小開催となり、ご参加希望のお客様にもご不便をおかけいたしますが、来年は盛大に開催できるよう努力いたしますので、ご理解の程お願い申し上げます。

また、参加される方におかれましても、コロナ感染拡大の対策(マスク着用、アルコール消毒等)を万全にしてのご参加をお願いいたします。

併せまして、当日収穫用の高枝切りばさみ、手袋等の貸し出しは致しません。参加される方々各自ご準備お願いいたします。

実施日程につきましては改めて受付した代表の方々へ郵送でお知らせいたします。

それまで今しばらくお待ちください。

以上、お知らせです。

 

リアルタイムの情報はツイッターで

10月24日(土)は大田原市の「とべや」さんで・・・・

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

本日は地元CRT栃木放送に生出演してきました。

そして明日10月24日(土)は大田原市の「とべや」さんにて出張販売。

とべやさんでは明日イベント開催との事。当社も新商品Colorasラーメンシリーズを引っ提げて出張販売いたします。

https://tobeya.co.jp/

お近くの方は是非ご来場ください。

創業100年 柚子収穫体験会の募集について

いつもご覧いただき、誠にありがとうございます。

毎年開催しております、政木屋Presents柚子の収穫体験会を今年も開催予定いたしております。

ただし、コロナ禍の影響を勘案して、規模を縮小しての開催となります。

内容といたしましては、100名様を上限に「お電話にて受付」いたします。開催日は柚子の成長具合によって変動いたしますので受付の後、弊社担当より直接ご連絡いたします。(おおよそですが11月の最終日曜日を予定しております。

受付方法

本日 2020年10月19日(月)~ 人数に達するまで

受付電話番号028-672-4118 (かけ間違いにご注意ください)

受付時間 9時~12時迄(受付時間以外の対応は致しかねます。ご了承の程お願い申し上げます。) 日曜・水曜を除く

受付時に「必ず」お名前、住所、電話番号をお申し出ください。最終日程の確認のご連絡が出来ない等ご迷惑をかけないためにご協力ください。

実施予定人数は100名様で打ち切ります。(コロナ禍を勘案しての人数です。ご理解、ご協力をお願いいたします。)

事前のお願い・・・収穫の際に使用する高枝切りばさみ、手袋などは各自ご用意いただきますようお願いいたします。

 当日ご準備無しででご来場いただいても機材等の貸し出しは行いません。ご注意願います。

昨年の収穫の様子

10月17日(土)は政木屋マルシェ 開催日!!!!

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

明日10月17日(土)は毎月第3土曜日恒例の「政木屋マルシェ」開催日です!

季節柄麺類が美味しい季節になってきました。心も身体も温まる「美味しい麺」がお買い得です!!

10時~13:30迄(雨天決行)

ご来場の際は「マスク着用」「アルコール消毒」のご協力をお願いいたしております。

また、体調のすぐれない方、発熱のある方はご来場をご遠慮いただきますようお願いいたします。

美味しい釜揚げうどん↓

お鍋の後の〆うどん↓

等々ご準備いたしております。

 

CRT栃木放送「秋のわくわくプレゼントキャンペーン」協賛中!!!!

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

只今、栃木県内にて聴視可能なCRT栃木放送(AM1530kHz、FM94.1MHz:どちらも県央地区)で開催中の「秋のわくわくキャンペーン」に当社の新商品「Colorsラーメンシリーズ」が協賛しております。

詳しくは番組ホーム御ページ↓をご覧ください。

http://www.crt-radio.co.jp/pickup/151

協賛商品はColorsラーメン7種類を1セットにした商品です。

冷蔵庫要らずでちょっとしたプレゼント等に如何でしょうか?

また、7種類の中には当社直営店の「麺のhaco」で人気の濃厚煮干しラーメンも入っております。

https://tochigi-ramendb.supleks.jp/s/123771.html

この機会に店舗にも足を運んでみてはいかがでしょうか?煮干し専門ですので、煮干し嫌いな方は「決して!!」行かないでください!!でも、逆に煮干し好きになっちゃうかもwww

麺のhaco 特濃和風ラーメン

政木屋 親子4代物語 

※この物語はFacebookに何話かに渡って掲載した内容を集約し掲載しております。ご了承ください。

今では初夏の那珂川の鮎、または松尾芭蕉の奥の細道紀行や雲岩寺で有名な黒羽町(現大田原市)ですが、その歴史をたどるとだいぶ違った顔が見えてきます。大正9年、その黒羽町で政木屋の初代 井上金次郎が製粉・製麺を始めたのが政木屋食品の始まりです。それ以前は今も名残がありますが、林業が盛んな地域で杉を製材し桶屋をやっていたそうです。屋号は正木屋だったようです。(私の祖母の話を聞いて文章に起こしているので多少のデフォルメはご容赦ください。)まさしく、良い木材で、正しい商売をするということで商いをしておりましたが、「風が吹けば桶屋が儲かる」とは冗談かもしれませんが、将来を見据えて商売替えをする決意があったのでしょう。当時は黒羽地区で小麦の栽培が盛んでそれをもとに何かできないかと考えたのかもしれません。もちろん黒羽町は冒頭にも書いた様に那珂川が流れておりますのでその水力を使って水車を利用した製粉・製麺をするといったことも自然な発案かもしれません。

初代 井上金次郎と乾麺を天日干ししている様子

大正~昭和は激動の時代になります。創業後間もない大正12年には関東大震災が、昭和6年には満州事変から第2次世界大戦へとなだれ込みます。2代目である井上喜一は徴兵され満州へ出兵。話はそれますが、宇都宮餃子のルーツは今の宇都宮市内にあった帝国陸軍の第59連隊が満州国へ出兵し、現チチハル市に駐屯していたことに由来しております。中国北東部では主食は粉食であり、その中でも水餃子は主食として食べられており、終戦後に帰還兵が焼け野原(宇都宮大空襲が原因)だった宇都宮で再現し屋台で商売をしたのが一説ともされております。(諸説あり)話は戻りますが、2代目喜一は家族ともどもチチハル市で暮らしており、3代目となる良夫はそのチチハル市で出生しました。私の記憶が確かならば、良夫のパスポートにある出生国が「中国」と記載があったと記憶しております。その後満州の雲行きが怪しくなると、喜一を除く一家(妻の重子、長女武子、長男良夫)は引上げ船にて命からがら帰国したそうです。一方の喜一は南方の戦線へ送られますが、銃創を負って帰国します。治療もままならない中で一家は栃木県内を転々としつつ、終戦を迎えます。終戦後は創業の地、黒羽に戻り稼業再開への準備を始めます。しかし、戦後は何もない世の中で原料となる小麦粉も中々安定した供給を受けられず、小麦を預かり製粉し製麺した乾麺と物々交換を生業として暮らしていたそうです。その後平和な世の中になると同時に3代目良夫も成人し丁稚(でっち)に出ることになりました。奉公先は宇都宮市内の岡島製麺所でした。当時は住込みの従業員が数人いて、そこへ良夫は黒羽から住込みの仕事をすることになり、母の重子は新らしく仕立てた布団を持たせ送り出します。高校を出たての良夫は何もわからずに住込み先へ向かいましたが、先輩たち住込みの従業員たちの煎餅布団を見て、良夫は自分の布団が真新しいことを心苦しく思っていたそうです。その心苦しさを仕事で必死に発散し、必死に働きました。作ることは人一倍得意としていた良夫は製麺にも慣れ、今度は配送をやってみてはと当時の社長に言われ、喜んで取り組みました。ある日、新商品ということで夏場の冷し中華用の麺を発売したところ大好評で、良夫はここぞとばかりに製造部に発注を入れ、いざ配達に出かけました。ところが、困ったことに天候が急に崩れ、当時は今のように日持ちしなかった商品が多かったため、工場へ持ち帰ることもできす、会社へ帰り際にすべて川へ投げ捨ててしまおうかと考え、どう会社にお詫びするか悩んで帰れなかった時もあったそうです。

一通りの製麺技術を学びいよいよ黒羽へ凱旋する時が来ました。真新しかった布団も煎餅布団になり黒羽での更なる発展を希望に帰ります。しかし、宇都宮での修業時代とは全く異なる人口の少なさや商圏の狭さに、良夫は悩みます。先にも話したように、製麺工場とは名ばかりの工場で、雨が降れば水浸し(那珂川がすぐに氾濫したので)で、途方に暮れる毎日だったそうです。しかし、その逆境こそがチャンスと捉え、麺を製造しては配送、そして新規開拓へ。どんどん販路を拡大します。すると、地元の黒羽よりも、当時国道4号線が通り、(当時の)国鉄の東北本線(現JR宇都宮線)が通る西那須野町の得意先が多くなります。
黒羽からでは配送時間もかかるので、この際西那須野に工場を新築しよう!と父親の喜一に相談、実行に移しました。今でこそ様々な中華麺(太さや重量、原料の違いなど)がありますが当時はせいぜい1~2種類。その中でも抜群に好評を得たものが「細ちぢれ麺」だったそうです。来る日も来る日も良夫は細ちぢれ麺を作って、黒羽はもちろん、大田原、西那須野、県境を越えて茨城県の大子町等に販売して回ったそうです。販売とは言ったものの今とは違って配送車ではなく、50ccのバイクの荷台に木箱入りの麺を括り付けては各地の食堂へ届けたそうです。時代の移り変わりとともに配達もバイクからオート三輪(若い方々には分からないかもしれませんが)へ、ライトバンから保冷車へと急速に進化していく時代でした。昭和44年新工場が完成し稼働を開始します。昭和44年に西那須野町(現那須塩原市)の国道4号線沿いに新しい工場を作り意気揚々と日々麺を作っては販売に出かける日々でした。その後、昭和46年には後の4代目となる良明が誕生します。

旧西那須野工場

当社の販売先は創業の地黒羽に始まり、大田原、県を超えて茨城県大子町、新工場で作った麺は観光ブームに乗り那須温泉、板室温泉、塩原温泉へと広がっていきます。温泉街では観光に来たお客さんがお土産に当社の麺を買っていく方が非常に多く、今では考えられないくらいどの温泉街も人で溢れかえっていたそうです。時には2トントラックでの配送で、荷台に乗りきらずに、助手席まで荷物を積み込んで配送に出かけることもあったそうです。時に温泉街の土産店も夕方ともなればお客で大賑わい。そこへトラックを横着けして商品を下ろそうとすれば、お客さんに迷惑だ!と怒鳴らられるほど温泉街のにぎわいだったそうです。そんな業績好調の時に限って、悪いことも起きるものです。3代目喜一が病に倒れ、手術で回復を試みましたが、今で言うステージ4の末期がんだったこともあり、開腹後すぐに手術せずにオペ室から出てきたそうです。せっかく西那須野工場を建築し軌道に乗ろうとした矢先の出来事で良夫は気を落としました。病の父親を背中に背負って新たに稼働開始した工場の中を見せたそうです。そしてついに喜一は帰らぬ人になりました。激動の昭和史を日本、満州、南方と渡り、復員後も家業を継承した喜一を誇りに思った良夫は地元に黒羽に立派な墓石を建立したそうです。

しかし、落ち込んでばかりはいられないと、製麺技術の向上に意欲を燃やし、新たに建築した事務所棟では研究室を設け、微生物の研究なども行いました。また、新たに製粉工場も設け、自家製粉にこだわったそばの開発に注力していました。麺の品質はもちろん、新たな商品開発も手掛けていきます。世間では町の中にある個人商店から新たな業態としてスーパーマーケットという小売業態が現れます。良夫はコレだ!と思い、スーパー向け商材の開発に一心不乱にのめり込みます。乾麺から業務用中華麺そして、スーパーにはどんな商品が麺としてふさわしいのか?そんな時代背景では家庭にはすでに冷蔵庫が普及し、冷蔵温度帯の商材が多く流通し始めます。そこで良夫は生めんを茹でた、より簡単に食べれる商材の開発をします。今では当たり前ですが、ゆでうどん、ゆでそば、等は全国的に見てもこの時代に急速に普及し始めます。業績も好調に推移し、設備投資もどんどん加速させていきますが、またもやここで思いもよらないことが起こります。先ほどゆでうどんが売れ始めたという話をしましたが、このゆでうどんを作るのにはとても大量の水を使うことになり、使えばその水を廃棄しなければいけないのは当たり前の事です。うどんを作るというより、茹でる水、麺を冷却する水を大量に使用するのです。水の廃棄は言葉で言うほど簡単ではなく、きちんときれいに浄化しないと工場排水として近くの川に排出することができません。そこに問題を抱えることとなり、作れば売れる商品が作れない事態になりました。そこで良夫はすでに販売先を宇都宮方面まで拡大していたこともあり、営業所もすでに宇都宮市内に開設していたので、この際宇都宮の近くに工場を建設しようと計画します。候補となる土地はいくつかありましたが、宇都宮市という住所になったとたんに地代が高くなることに困り果て、当時宇都宮市に隣接していた上河内村に新たな土地を購入(約1200坪)し、新工場の建設が始まります。そんな中、世間は戦後最大の好景気、所謂バブル時代を迎えます。作れば売れる、そんな時代でした。販売先も業務用としては、食堂、産業給食、観光地の旅館、物産店、ゴルフ場、スーパーと、どんどん拡大していきます。しかし、そんないい時代は長続きしません。バブル崩壊です。
しかし、良夫は常に売り上げのシェアを時代時代にあった構成比で確保していたおかげで大きな苦境を迎えずに何とか乗り切っていきます。そんな折に突然ある電話を受けます。
岡島製麺所の社長からの電話でした。
「岡島製麺所」それは良夫が丁稚に行ったあの製麺所です。聞けばどうやら後継者がいないので会社を買い取ってくれないかとの内容でした。良夫は悩みましたが、様々な方々に相談した結果、買い取る決断をしました。その背景には、当時の上河内村という住所が重要なキーワードになります。と言うのも、ある時東京の築地のそばにある物産問屋へ営業に行った時の事です。名刺を渡し、話を切り出そうとしたとき、先方から上河内村ってどこにあるの?と聞かれたそうです。良夫はそのことがある種のコンプレックスのようになり、県内ならまだしも、東京へ営業に行くにはどうしても県庁所在地、つまり宇都宮の住所が欲しかったのです。岡島製麺所を買い取れば、そこを本社登記して名刺に本社宇都宮市、、、、と記入できる。と考えた結果でもあると聞きました。
しかし、後の顛末ですがその上河内村も上河内町になり、平成の大合併では宇都宮市に併合されるという、なんとも皮肉な結果となるのは知る由もありません。
岡島製麺所を購入すると、もともと居た職人たちは面白くありません。ある日突然、全員で会社を辞めるといってきたそうです。しかし、良夫はそれを事前に察知していたのか、岡島製麺所が製造していた商品のほとんどを上河内の工場で作れる準備を進めていました。得意先には何とか迷惑をかけずに、乗り切ったそうです。
話は少し脱線しますが、この岡島製麺所。宇都宮市内では少しばかり老舗でして、当時市内の業務店の焼そばは殆どのシェアを持っていました。当時の岡島社長(先代)は、市内にあったソースメーカー(大塚ソース)と、このソースにはこの麺だ。この麺にはこのソースだ。と喧々諤々し、お互い切磋琢磨することで現在の宇都宮焼そばの源流があると聞いています。確かに宇都宮と言えば「餃子」ですが、実は今でも結構な数の焼そば屋さんが営業しています。今でも岡島製麺所の焼そばは市内でも結構なシェアを維持しているのではないでしょうか?餃子に埋もれてしまっておりますが、やはり宇都宮のソウルフードと呼ぶにふさわしい食品だと思っています。
さて、岡島製麺所を買収し、新しい宇都宮工場も順調に生産量を増やしていくも、バブル崩壊、経済全体の低迷期がやって来ます。しかし、スーパーマーケットは全国的にも店舗数をどんどん増やしていく時代でしたので、スーパー向け商材の拡充を図りながら経営をしていきます。しかし、ここでもまさかの逆風が。。。

旧上河内町(旧宇都宮工場)

 

大学を卒業し食品メーカーで他社の飯を食って帰ってきた4代目良明が会社に戻ったころ、良夫に耳を疑うような情報が飛び込んできます。上河内の新工場の前の道路が拡張工事に入る、との内容でした。親子3代にわたり3か所目の移転を行い、安住の地と考えていたこの工場でもあと数年後には(正式にはいつから拡張工事をするかの情報は未確認でした)また移転を余儀なくされる。そんな折、3代目良夫は病に倒れます。修行から帰ってきたとはいえまだ未熟な4代目良明は何とか麺を作ることだけは引き継ぎができていたので、とにかくお客様には迷惑をかけないよう麺を製造しました。しかし、実際の経営とは単純に麺を作ればよいわけでなく、それをどう販売し、売上を立て、それを回収・分配するか、また、会社の将来像をどう描くか、、、本当の意味で経営の大変さを認識させられます。3代目良夫の症状は一向に良くならず、施設に入ったきりの状態が続きます。そんなときでも、県道拡幅工事の期限は否応なしにやって来ます。県の土木課の人たちは早く移転してくれないと工事ができないとか、様々なプレッシャーの中、新たな工場用地の確保に動き始めます。しかし、困ったのは県道拡幅に伴う土地収用の部分に工場の建屋が1mmも掛からないということでした。しかも、拡幅に引っかかる部分には食品製造の命ともいえる井戸や高圧受電設備、工場排水の浄化設備などがあり、その敷地内での継続した製造はどう見ても無理。やはり違う場所へ移転するしかないのか。
思えば新しいと思っていた上河内の工場も稼働から20年以上が経過し、各所に補修も必要な状態であったし、各取引先様の条件や、食品衛生の基準も以前とは全く比べようのないほど厳しさが求められる時代背景もあり、移転の決断をします。近隣に候補地をいくつか探し、同時に新しい工場のコンセプトを考えながら進んでいきます。そして、ようやく様々な条件を満たす工場用地が、今現在稼働している宇都宮市の下田原町だったのです。新しい工場のコンセプトは「スマイル&5S麺工房」としました。これは、スマイル=笑顔、麺を作ることに楽しくなれる、携わるのもたちが皆笑顔になればいいなという思いです。5Sは最近よく耳にすると思いますが、整理・整頓・清掃・清潔・躾の頭文字Sを取ったものです。麺工房はただ単に食品を製造する工場ではなく、商品を作り込む、職人気質のモノづくりを表現しました。その結果、新しく稼働した工場は「とちぎHACCP」の認証工場として今現在につながっています。HACCPとは「お客様に危害を与えない食品製造システム」のことであり、安心安全を担保するうえでも重要な考え方で、現在では義務化されています。

 

2020年7月に創業100年を迎えましたが、美味しさの追求は初代金次郎から今現在に至るまで変わらぬ拠り所であると企業理念にも謳っており今後も不変のものです。また、麺を作るだけでなく、より消費者の皆様に近づくために、製造卸から製造販売やダイニング(外食)部門を創設し自分たちが作った麺を直接食べていただく体制をこれからも強化してまいります。今取り組んでいることとしては、毎月第3土曜日の「政木屋マルシェ」があげられます。出来立ての麺、工場直売でしか買えない麺等をお買い得い価格でご提供しております。県内の食品メーカー各社の協力を得て出店いただいております。また、ラーメン専門店のアンテナショップを出店し、消費者の皆様のご意見を頂戴しつつ、商品開発にフィードバックさせております。政木屋食品は麺を通してお客様に「よろこび」「あんしん」「おどろき」をお届けするためにこれからも新しい商品価値や味の追求をしてまいります。皆様のおかげで創業100年を迎えることができましたが、今後も相変わらぬご愛顧を賜りますよう、社員スタッフ一同のお願いとさせていただきます。

 

こんな具合でだいぶ端折っての物語でしたが、いかがでしたでしょうか?本当はもっといろいろな事や麺についての話をしたいのですが、紙面の都合上このくらいにしておきたいと思います。これからも様々な情報をお届けしたく。今後とも宜しくお願い申し上げます。

 

麺工房 政木屋 営業カレンダー

いつもご覧いただき、ありがとうございます。

10月の麺工房営業カレンダーは次の通りです。

毎週土曜日は麺工房前にてミニミニマルシェ開催中!!!

新商品のキャンペーン開催中です。

是非ご来店ください。

また、麺工房の飲食メニューは秋冬メニューが登場!!

北海道白味噌と生姜の風味が食欲をそそる味噌ラーメン(特製手もみ麺仕立て)

季節感じる「きのこ卵とじラーメン」はしめじをふんだんに使った塩ラーメンスープとふんわり溶き卵の旨味あふれる一杯です。

是非ご来店ください。

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